スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「知られざる戦後 元日本兵・元国府軍台湾老兵の血涙物語」 

(*この記事は、以前楽天ブログでやっていた時の過去記事をキャッシュで復元させたものです。楽天ブログは1記事1万字の制限があったので4回にわけましたが、fc2は字数制限がないので1記事にします。)

 先日焼身自殺された許昭栄氏の著書「知られざる戦後 元日本兵・元国府軍台湾老兵の血涙物語」。

 日本では入手困難だと思われますが(私は台湾で許氏に贈呈された方から拝借しました)、参考の為に一部引用紹介させていただくことにします。(全4回)

 許さんが取り組まれ、訴えたかった”台湾老兵”のことが少しでも多くの方に知られることを願いつつ。



 (引用ここから)

 第6章 中国文化大革命下の元日本兵

【井戸に飛び込み自殺した元日本兵】

 中共軍の虜となって、中国大陸に40余年残留された元日本軍・元国府軍台湾老兵たちが、一番苦難に直面したのは、「文化大革命」期間である。

 凡そ90%の台湾老兵は「歴史反革命分子」、「日本軍閥の残余分子」、「国民党の特務」、「台湾のスパイ」、「黒五類」などの容疑で逮捕され、過酷な審問を重ね、罪の重い者は投獄、または遠く離れた辺境の集団農場や鉱区へ「労働改造」に移送された。

 罪の軽い者でも、三角の帽子を被せられ、「歴史反革命分子」とか、残余「日本軍閥の残余分子」とか、「黒五類」など大きく黒字で書いた木札を紐でくぐって首に吊り下げ、それを胸元にぶら下げて街頭を遊行させられ、わざと民衆に見せしめ、酷い者になると、「批闘大会」(批判闘争)に連れ出されて群衆に足で蹴っ飛ばされたり、顔に唾を吐かれたり、心身ともに砕くほどの辛い思いをさせられた。

 従って、文革期間、中国に滞在している台湾人は殆ど自分の身柄を隠し、台湾の「台」の字でさえ口に出すのを怯え、台湾人同士は互いに音信を経ち切っていた。


 中国「文化革命」期間、黒竜江省とシベリアの国境に近い「紅星農場」へ労働改移送された元日本軍、元人民解放軍の重機関銃射撃士陳力芬氏(台湾基隆市生まれ)は、毎日心身に加わる侮辱に耐え切れず、農場の井戸に飛び込み自殺した。

 彼は日本統治下の台湾に生まれ、日本の精神教育を受け、二次世界大戦中「誉の軍夫」として日本軍に徴用され、中国大陸へ通訳として派遣された。が、体格の頑丈な彼は後に重機関銃分隊に編入され、前線に廻された。

 激しい戦火を浴びて死に損なった彼は、日本の敗戦に無念の涙を流し、復員して台湾に帰還した。


 翌年、彼は基隆に上陸した「国府軍」の身形を見て、戦地でよく見る支那軍の敗残兵の姿を思い浮かべ、嘆かわしく感じた。

 「日本はこんな敗残兵に負けたのか!」彼は悔し涙を噛み締め、夕方になると基隆の波止場を彷徨い、日本への密航の機会を探していた。そのうちに、「2・28事件」が勃発し、事件の炎は瞬く間に台湾全島に広まった。

 陳氏は戦地帰りの元日本兵として、学生隊に加わって指揮を取り、「チャン国奴め!」心の無念を晴らさぬばかりに、勇んで中国の弾圧部隊に立ち向かった。

 が、残念ながら、2・28事件は弾圧され、国府の暴政に立ち向かった台湾人の抵抗は失敗に終わった。


 陳氏の名は、事件の後について来る「清郷掃蕩」の対象としてマークされ、そして逮捕された。

 当時の国府軍の兵隊は横暴極まり、民間人とちょっとしたトラブルがあると、すぐ銃口を目の前に突き出し、「銃殺するぞ!」と怒鳴って威張り散らした。

 陳氏はよくも銃殺されなかった。憲兵隊長は彼の過去の経歴を洗い立て、中国戦線から復員して帰って来た「元日本兵」ということを知り、報復と云うよりも、寧ろ、利用の価値があると見取ったのか、彼を陸軍に廻し、結果的に彼は第70師団第384旅団題3連隊の重機関銃隊に配属されて、再び中国戦線に送還された。

 今度は、日本兵せなしに、中国国民党軍の重機関銃士として、中共の八路軍と戦わされた。

 強制的に「支那兵」に変貌された彼は、益々中国人に対する憎悪感が募った。

 徐州戦役で幾度も死に損なった彼は、部隊を脱走しようと計画したが、監視の目は厳しかった。最期に脱走失敗して捕まえられたとき、彼はもう少しで逆立ちにして生き埋めにされるとことだった。

 国府軍は遂に敗戦を喫し、陳氏は中共軍の俘虜となった。


 戦に負けて台湾に撤却すれば、家に帰れる夢を描いていた彼は、帽章を取り替える暇もなく、今度は「人民解放軍」の戦士となり、敗走する国府軍の追撃戦に当てられた。

 国府軍の敗残兵を追って彼は舟山群島まで南下した。

もう一息で台湾海峡を越えて家に帰れる、と喜んでいたところ、折しも朝鮮戦争が勃発し、部隊は急遽北方に移動し、彼の夢は再び破滅してしまった。

 彼はその時になって、初めて自分の悪戯な運命を悟った。


 1950年10月、陳力芬氏は「中国人民志願軍」の一兵士として、鴨緑江を渡り、北朝鮮の温井に向かった。

 米軍の猛烈な砲撃に対し、「抗米援朝中国人民志願軍」はゲリラ戦術で応じた。

 彼は激戦の合間、または進軍中、時々急に「俺は中国人民志願軍の戦士か?」と心の中で叫んだり、時には大声を立てて自分を嘲笑った。


 陳氏は第二次の38度線奪還戦役で胸と右足に重傷を負い、危うく命を取り戻した。

 中国に送り返された彼は、その後、奉天の病院で治療を受け続け、その間に「三反・五反」運動が始まり、負傷回復後、また軍隊に戻された。

 
 1966年5月、中国共産党に制覇された中国に「文化大革命」が起きた。

 陳氏は紅衛兵に引っ張り出され、「日本軍閥の残余分子」、「国民党の特務」、「歴史反革命者」などの罪名を挙げられ、人民公審にまわされ、小便をぶっかけられたり、唾を吐かれたり、拷問されたりした後、「人民志願軍」に参加した功労と差し引いて、懲役は免れたが、黒竜江省の中ソ国境に近い「紅星農場」に放逐された。

 彼はそこで毎日嫌々ながら、思想と労働改造を受けざるを得なかった。

 その上に、毎日心身に加わる侮辱の波々に耐え切れず、遂に農場の井戸に飛び込み自殺したのである。


 元日本軍の「誉れの軍夫」、「元国府軍」、「元人民解放軍」、「元中国人民志願軍」の銃機関銃士陳力芬氏は、かようにして自分を「解放」した。


 この涙ぐましいストーリーをハルピンで知らされた私は、その場で頭を下げて、陳氏のご冥福を祈った。

 そして彼の不運な遭遇を歴史の証言として書き残さねばならない、と心に誓った。


 「文化大革命」時代、陳力芬氏と同じような運命に晒された台湾人は、中国全土にどれ程いたか知らされていない。

 残念ながら今に至って、彼らをそんな悲惨な境地に押し込んだ責任を取ろうとする政府もいなければ、彼らの悲運に「憐憫の情」を寄せようとする慈善家もいない!

 このような無責任な政府、そして無神経な世の中を天地の神々は黙って見ていられようか?私は不思議で仕方がない。


((二)へ続く)

*(二)はキャッシュが既に消えていて復元出来ませんでした。orz


((二)の続き)

 1973年12月、彼は中共当局に「表現、馬馬虎虎」(成績、まあまあ)と評価されて自由の身になったが、妻子を連れて途方に暮れた。

 台湾に帰ろうと思っても、国共双方が敵対している限り、故郷に帰れる筈がない。それは火を見るよりも明らかである。

 仮に可能としても、既に中国大陸で再婚してるし、妻と娘を連れて帰れば、必ず家族のトラブルが起きる筈。

 嫌というほど辛い思いをした泗陽県を離れようと思っても、「通行証」がなければ歩けない。

 考え詰めた挙句、彼は運命の成り行きに任せて運河の堤防の管理役を引き受けた。


 江蘇省の冬は厳しい。

 風雪が狂いまくり、困っている人を一層苦しめる。

 羅氏一家3人は新年のお正月を目の前に控え、金もなければ、風雪を凌ぐ家もなく、あたかも木枯らしの吹かれて立ち震えている防風林のごとく、只灰色の空を眺め、身震いしながら、一日も早く春が来るようにと神様に祈り続けた。


 戦時中、海南島に派遣され、現地の部落民生活や野外生活に長けた羅氏は、厳しい冬の風雪を凌ぐため、堤防の土手を掘って洞窟を造ろうとした。

 そしたら、思いも寄らず腐敗化した棺桶と白い骸骨が現れた。

 人間は一旦これほど落ち潰れると、鬼神も恐れず禁忌も迷信もない。

 彼は腐敗した板切れと白骨を拾い集めて別に穴を掘って埋め立て、墓穴を掘り広げて3人住める程度の洞窟に仕上げた。


 その年、羅氏一家3人は政府から配給された僅かな「食糧」を頼りに、洞窟の中で新年のお正月を迎え、厳しい冬を凌いだ。

 年が明けて、暖かい春風が吹いて土塊にして壁を築き、河辺の萱草を刈り取って屋根を葺き、6畳ぐらいの小さな小屋を築き上げた。

 彼ら夫婦親子3人はその「埴生の宿」みたいな小屋で17年の歳月を送った。

 その間、羅氏は運河の堤防や防風林の管理に勤め、暇の時間を利用して波止場の貨物運搬に従事した。

 秀蘭は娘泗妹を連れて市場や野菜畑に棄てられた野菜を拾ったり、農家の取り損なった穀物や甘藷などを拾って生活を補った。


■望郷と妻・秀蘭の死

 1987年の暮れ、台湾の国府は国内外から押し寄せて来る「返郷探親」(親族見舞いに里帰りをする意味)を求む叫び声に圧倒され、対中国大陸との門禁を解除した。

 お陰で台湾に退却して来た国府軍退役老兵達(外省人)は40年振りに故郷の土を踏むことが出来た。

 だが、一方、国府は中国残留元国府軍台湾老兵の帰還問題に就いては、いろいろ非人道的な規定を制定し、台湾老兵の帰郷を禁制した。

 羅氏は気が苛立ち、食欲は進まず、夜は眠れず、毎日運河の波止場や町の停車場を彷徨い、台湾から「探親」に帰って来たという老人を見つけては走り寄って、台湾の家族宛ての手紙を届けて貰うよう、ぺこぺこ頭を下げてお願いし回った。


 赤いたすきを肩に掛け、日の丸の旗波と「誉れの軍夫」の歌声に送られて、門出して既に50年。

 この慢長な50年の月日は、羅氏の鋭気と誇りを完全に削滅してしまった。

 心身ともに弱まった彼の心に残る最後の悲願は、一日も早く故郷−台湾に帰りたいと云うことだけである。

 それには先ず台湾にいる身内の者と早く連絡を取らねばならない、と心の中で焦っていた。


 国府軍外省人老兵の「返郷探親」開放して以来、羅氏の郷愁は日に募り、そして、彼の帰郷の欲念が募れば募るほど、妻秀蘭は逆に益々気が沈み、対話でさえしたくないようになってしまった。

 従来から苦労と栄養不足で貧血し続けていた秀蘭は、どうも泗陽を離れるのが嫌なようであった。


 ある日、不幸が訪れて来た。

 運河の畔で何時ものとおり市場で拾って来た野菜を洗っている時、秀蘭は不意に脳貧血を起こし、運河に落ちて溺れ死にしてしまった。

 その時、羅氏は平常とおり街へ台湾帰りの外省人老兵を探しに出かけていた。

 凶報を接して現場に駆けつけた時、妻は既に息を引き取っていた。


 羅氏は自分の無責任を自責し、妻の遺体を小屋の傍に葬り、毎日朝晩、妻と対話するように計らった。

 秀蘭に死に別れた後、羅氏の精神的負担は確かに一段軽くなった。

 彼は一人娘泗妹と水入らずに、台湾に帰る希望を燃えながら長い日々を過ごした。

 しかし、残念なのは、その時点に至って、羅氏は海南島に出征する時、大きなお腹を抱えていた台湾の妻・碧玉が既に十余年前に再婚した事情を全く知らなかった。


■親子初対面の悦び

 1988年初夏、羅氏は台湾の肉親と連絡が取れた。

 手紙の筆跡は確かに羅登輝の親筆には間違いないが、日本の軍夫として海南島に派遣されて戦死した筈の羅登輝が、40年後に、中国大陸に生きているとは、夢にも思わなかった家族達は半信半疑に戸惑った。

 しかし、同じような連絡の手紙が四方八方から異なった人の手を通じて届いてくるので、家族達は彼の生存を信じざるを得なかった。

 希望の炎が燃え出した家族達は相談の結果、旅行団を組んで観光がてらに江蘇省の泗陽県へ赴くことに決定した。


 50年振りに、羅登輝の顔姿を見た従兄弟の羅団長が驚喜の声をあげて、

 「確かに羅登輝だ!」

 と叫んだとき、生まれた初めて顔を会わした親と子は、抱きあって嬉し涙を流して泣いた。

 一緒に旅行団に参加して行った身内以外の方々もその情景に感動し、貰い泣きの涙を拭った。

 特に、羅登輝一家3人が17年間過ごして来たと云うみすぼらしい小屋を見て、皆同情に堪えなかった。

 泗陽を離れる時、観光旅行に同行した身内以外の方々までも、身に持っていた余分の現金(米ドルや人民券)を出し合わして、羅氏に手渡した。

 従兄弟である羅団長が全員を代表して、

 「この金で鉄筋コンクリートの壁に瓦葺の二階建ての家を建てなさい。足らなかったら云うて下さい。」

 と念を押して、羅氏の手を握りしめて励ました。


■破壊された帰郷の夢

 親子会見して一ヶ月余り、羅氏の息子鐘雄は再び泗陽に飛んで行った。

 今度は親父を台湾に連れ戻す手続きを取りに行くのが最大の目的だ。

 中国側の政府は余儀なく羅登輝の帰台許可証を発行した。

 羅氏は72歳の老体を杖に頼り、息子と一緒に香港に設置してある国府のビザ機関「港九救済委員会」を訪れ、帰台ビザを申請した。

 ところが九龍の金門飯店に泊まって丸々三ヶ月、持って行った旅費は全部使い尽くしてしまったが、台湾側の入国ビザは待っても待っても一向下りて来ない。

 どうしたんだと気を揉んで人脈の効いた人に頼んで調べてみたら、なんじゃ、台湾の国民党政府は「中国残留元国府軍老兵」の帰台条件として、「満75歳以上でないと入国ビザを発給しない」と規定していることがわかった。

 羅氏親子はがっかりした。

 咄嗟に悲憤の涙がまぶたに溢れ、親子ともに失望のどん底に落ち込み、仕方なく「豚小屋」と自嘲していた泗陽の古巣に連れ戻った。

 それ以降、羅氏は毎日悲憤と憂鬱に明け暮れ、外へ出るのも億劫になってしまった。

 「せめて、娘だけでも先に台湾に帰らそう」

 と思いついた羅氏は、台湾の息子に手紙を出して、妹の入国手続きを取るよう、言付けた。

 が、帰って来た返事は、なんだ、「親に随行して帰台する子女は、12歳未満者に限る」と規制しているという悪辣な消息だった。

 当時、羅氏は72歳未満で、娘泗妹は既に満21歳。親子共々台湾に帰る資格がないと云うわけだ。

 羅氏はかつてこんな莫大な精神的打撃を受けたことがなかった。

 心身ともに疲れ果てた彼は、

 「国民党政府の法令や規定は余りにも出鱈目な上に、誤魔化しばっかり。官吏のやり方も又汚い」

 という、かつて自分がよく国府を批判した言葉を思いだして検証してみた。それは正にその通りだった。彼は台湾人に生まれた悲哀をもう一度深く痛感した。

 「よーし、意地を通してでも『鉄筋コンクリートの壁に瓦葺の2階建て』の家を建ててみよう!」

 彼は心の中で堅く誓った。


■ああ、元日本軍・元国府軍台湾老兵の挽歌

 台湾にいる鐘雄の経済援助と羅氏の苦労によって、二階建ての基礎が出来上がり、梁が据え付けられた。

 見る見るうちに、1階のコンクリートの壁が出来、2階の天井が出来上がり、赤い瓦も南京からジャンクで運んできた。

 が、羅氏は毎日昼も夜も疲労と悲憤に燃え悩まされ、ついに肺部の宿痾が複発して病床に倒れてしまった。

 1989年のお盆を迎え、やがて秋風が吹き出し、堤防の防風林の木の葉が枯れ落ちる頃、彼の新築した「鉄筋コンクリートの壁に赤い瓦葺」の2階建ての家が完成した。村にしては立派な家である。

 落成式の夕べ、新築した家の庭先で祝いの宴を張った。村の人々は老若男女構わずに集まってきた。中には「文化革命」時代、羅登輝を非難し、彼を嘲笑したり、顔に唾を吐いたり、足で蹴ったりした「紅衛兵」の顔も混ざっていた。役所の偉いさんもお祝いの挨拶に来た。

 羅登輝は病中のところ、息子と娘に両脇をかかえ、杖をついて宴会場に老い痩せた姿を現した。村祭りを思わすほどの賑わいではないが、息が詰まりそうな騒ぎだった。

 「羅先生、恭喜恭喜!」(おめでとう!)の声があちこちに沸きあがり、「羅先生、乾杯!乾杯!」とせきたてられた。羅氏は笑うことも、飲む気も浮いて来ない。寧ろ、彼は心の中で泣いていた。

 台湾から落成式に飛んできた鐘雄は、親父の「入境許可証」を持参したが、羅氏は既に旅出する気力もなく、又、台湾へ帰る意欲もなくなった。

 そして、同年12月25日、「落葉帰根」(故郷に帰宿する意味)の悲願は果敢なき夢となって消え、無念の涙を両側の目尻に湛えたまま息を引き取った。

 厳しい太平洋戦争の砲火、悲惨な国共内戦の人海戦術、横暴な文化革命の屠殺など、大動乱時代の波乱を踏破して生き抜いてきた羅登輝氏は、国共対立の緩和、国府の戒厳令廃止、そして台湾海峡両岸の門禁解除まで頑張ってきた甲斐がなく、生まれ育った故郷に帰還する最後の段階に於いて、民主主義を標榜している中国国民党政権の非人道政策の下に倒れてしまったのである。

 羅氏は恰も戦場で重傷を負い、折角自分の陣営の城門まで駆けつけて帰って来たにもかかわらず、城門を開けてくれないため、多量出血し、ついに自分の城門の前で無残な死を遂げた武士のような惨めな最期だった。

 羅登輝氏の死は、「台湾人」に生まれた悲劇を物語っていると共に、中国国民党政権の暴虐と非人道的な「戦後処理」に対する無言の抗議ではなかろうか?

 羅氏と同じように国府の悪辣な差別政策にショックされ、無念の涙を飲んで亡くなられた中国残留元日本軍、元国府軍台湾老兵はどれ程いたか知る由もない!

 しかも、この残虐な史実は、国府の偽装に隠されて21世紀の「自由民主とハイテク時代」に消え去りつつある。

 私はそれを悲しんで見流すよりも、むしろ、自分の意識が存在している限り、拙文でも構わないから早くその史実を書き残し、自腹を切ってでもこれを自費出版し、日本の皆様にも分かっていただきたい、と願って止まぬ次第であります。

((四)へ続く)



【第七章 中国国民党政府の非人道政策】

■戦後、台湾人の苦闘と念願

 日本の多くの方々は、戦後、台湾は中国に復帰したから、国ふの愛護の下で、「祖国」の同胞たちと睦まじく幸せに暮らしている、と思っているだろう。

 事実は全く逆である。

 中国に復帰して1年半足らずに発生した「2・28事件」、並びに50年間にわたる「元日本軍・元国府軍台湾老兵」に対する差別待遇、殊に「中国残留元国府軍台湾老兵の帰還」に関する非人道政策だけを例に取り上げても、充分国府統治下に於ける台湾人民の苦悶と、なにゆえ、「台湾独立」を望む台湾人民の心境を察することが出来るでしょう。


■台湾老兵に対する差別待遇

 再三繰り返して強調しますが、同じ「国府軍老兵」であり、同じ中華民国の「退役老兵返郷探親制度」でありながら、国府は台湾に退却して来た外省人老兵に対しては、何の規制もなく、その上に、社会からの義捐もあるが、一人当たり、新台湾2万元(当時、約日本円8万円)の旅費を補助して中国大陸へ帰らせた。

 彼らは親族を見舞いし回ったあと、自由自在に彼らの意志決定で選択することが出来る。

 
 しかし、中国に残留している元国府軍台湾老兵に対しては、いろいろ過酷な条件を設定し、台湾老兵の帰還を公然と禁制した。

 却って、中国側の共産党政府は、大陸籍老兵であろうと、台湾俘虜兵や朝鮮戦争時代の「反共義士」であろうと、何の条件も制限もなく、「一視同仁」に中国大陸への「出入境」を認可した。


 台湾側の国府が、「中国残留元国府軍台湾老兵の帰還問題」に関して取った不平等政策は、中国共産党より非人道的であることを自ら暴露していると共に、どれほど中国残留元国府軍台湾老兵に多大な精神的打撃を与えたか測り知れない。

 この史実に言及するたびごと、私の脳裏に、羅登輝氏が気が狂わんばかりに目を光らせて、台湾帰りの国府軍外省人老兵を探してはぺこぺこ頭を下げて、家族との連絡をお願いしまわっている可憐な姿が目に浮かんでくる。

 歴史の証言として、当時、「国府軍老兵返郷探親政策」上の差別対照表を参考にご覧下さい。

kyo1.jpg

 以上ご覧の通り、国府の対「中国残留元国府軍台湾老兵」の帰台禁制政策は冷酷無情極まり、と云うよりも、寧ろ、戦時中の砲弾や銃剣よりも残酷、と形容したほうが適切だろう。

 正直に申して、二次世界大戦後、台湾人民は国府の「民主主義、自由中国」の旗影に隠された、蒋介石政権の威権統治(独裁)と愚兵愚民政策の下で、50年間脅かされたり、騙されたり、甚だしくも血涙まで搾取されて過ごして来たが、日本人にはその真相が完全に伝えられていなかった。

 我々台湾人はまさに呉濁流氏がかつて彼の著書「アジアの孤児」で描写した通りの運命を辿ってきた。


 台湾の前総統李登輝氏はかつて、

 「『台湾人に生まれた悲哀』を感じつつも、やがて、『悲哀の歴史をもつゆえの幸福』へと考えが変わって行った理由を説明したい」

 と外国の来賓に語った。その心境は、今、この拙文を書いている私も全く同感である。


■傷だらけの心に冷たい故郷の風

 九死に一生を幸を獲て、故郷・台湾に帰還した台湾老兵達も、決して幸せに暮らしてはいない。

 彼らは今皆70歳以上の老人に変貌している。

 半世紀に及ぶ望郷の念願は叶ったとは云え、帰郷してみれば、迎えてくれた風は冷たく、昔の懐かしい面影はほとんど消え去っており、国府の「生活援護」も壁に描いた餅に過ぎない。

 しかも、殆ど身の置き所もなく、宿蟹のように兄弟や親友の軒下に身を寄せたり、或いは家賃の安い田舎の家を賃貸して住んでおり、今の現実な台湾の環境に対応するだけでも大変なことである。

 中華民国政府は最近、新台湾5000億元という莫大な予算を組んで軍人の「家族宿舎」を改築しているが、中国大陸から帰ってきた台湾老兵には、それを配給する「福の神」に恵まれていない。

 私の知っている範囲では、現在に至って、殆ど家賃の安い家を借りて住んでいる。


 陜西省西安から彰化県大林に帰住した呉添地氏は、故郷で生活していく為、製材所の臨時工として雇われたが、2週間足らずに右手の人差し指と中指を鋸に切断されてしまった。


 青海省の高原から台南省の塩水に帰住した楊木貴氏は、故郷の気候に適応できなくなったのか、喘息症に罹り、青海から連れて帰った妻は、土木工事の日雇いとして出稼ぎに行ったが、一ヶ月足らずに左足を骨折し、夫婦共も病床に横たわって苦しんでいる。

 子供は6人もいるが、国府の規制により(12歳以上の子女は入国ビザを発給しない)、子供達は皆青海の高原に残しているので誰も傍で看護する者がいない。


 上海から南投県の農村に帰ってきた李川氏は過労の余り、台湾に帰還して僅か二ヶ月で死亡してしまった。上海から連れ帰った妻は孤独な未亡人になった。

 が、国府はそれを憐れむともせず、却って、元来毎月支給していた僅かな「生活援護金」(就養金)を取り消し、甚だしくも「医療保険」までも取り消してしまった。

 生活困難に陥った李川の妻は、上海にいる一人娘を呼び寄せることも出来ず、上海に帰るわけにも行かず、村の人々はその境遇を同情し、近くのお寺に清潔婦として雇って貰うことにした。

 お陰で老婆は餓死せずに何とか生きていかれた。

 外省人老兵なら、例え、老兵本人が死亡しても、未亡人は死ぬまで毎月政府から半額の「生活補助金」(援護金)が支給されることになっている。台湾老兵にはそのとうな特恵がない。


 国府の「台湾老兵」に対する差別待遇や政策は「一国兩制」や「非人道」だけでなく、「喪心病狂」(理知を失った気違い行為)と罵倒しても過言ではない。
 
 私の調査によれば、1995年12月末迄、台湾に帰還した360余人の中国残留元日本軍・元国府軍台湾老兵の中、本当に老後の生活を営み得る者は数人もいない。

 国府は名義上、彼らに「就養金」として毎月新台幣12000余元(所帯者は13000余元)しか支給していない。

 現在、台湾国民の最低所得は新台幣15360元になっている。

 ですから、中国大陸から帰還した台湾老兵たちは、最低平均所得よりも低い「恩給」で生活している。

 これが「台湾老兵」の宿命だろう!誠に嘆かわしい事態である。


■尊厳と存在価値のない台湾老兵

 国共内戦に負けて台湾に退却した「中国国民党政権」は、台湾を独裁統治して足掛け55年。

 「亡命政権」だった国府は、今や世界中で一番「金持ちな政党」と謂われている。

 が、元国府軍台湾兵戦没者や傷病者の補償問題に関しては、「保証に値する証明資料がない」と屁理屈を並べて戦争の責任を逃れている。

 
 又、中共軍の包囲を突破し、或いは最後まで戦い、弾薬尽きて、国府と一緒に大陸を撤退して帰台した生還者台湾老兵に対しても、外省人老兵と同等の生活援護を施さず、40余年間、自生自滅させて来た。

 理由は、

 「台湾老兵には、台湾に家があり、財産もあり、子女がありて、彼らの年間所得ンの総収入は『就養金条例』(生活援護法令)の規定を超過しているから適用しない」

 と、ロジックに合わない理由で以って申請を拒否している。


 一方、同じく国共内戦に負けて撤退して来た外省籍老兵に対しては、「退役金」、「戦士授田補償金」を始め、子女の学費、家族の医療保険費、電気・水道費、所得免税など、きめ細かく面倒を見てやってきた。

 彼らは、例え中国大陸に帰って定住しても、政府は半年毎にちゃんと「退役年金」や「就養金」(生活援護金)を定期的に支給してやっている。


 同じく中華民国の為に尽くし、しかも空前絶後の苦難を重ね、やっと故郷に帰ってきた台湾老兵たちは、生活して行くには定年年限を超過した老体を引きずって工場の臨時工とか、ビルの守衛とか、道路の清掃夫、又は、老婆をレストランの皿洗いなどの仕事に従事させなければ食って行かれない状態に置かされている。



【第8章 最後の悲願−「世界平和祈願公園」建設の夢】

■誰の為に戦い、何のために死んだか?

 思えば悲し哉。

 中国に「大難死なざらば、必ず後福あり」、と云う昔からの諺がある。

 だけど、幾重の戦争を遍歴して生き残った元日本軍、元国府軍、並び元中共人民解放軍台湾老兵には「後福」だけは付き添っていない。

 却って辛い思いをさせられたことは前述した通りだ。

 彼らは九死に一生の幸を獲て帰郷したとは云え、尊厳もなければ、生き残った価値もなく、国家と社会に見捨てられ、無意義的に死ぬ日を待っているだけに過ぎない。


 尚、戦死した多くの元日本軍・元国府軍台湾老兵は、当時、騙されたり、強制拉致されたりして中国大陸の前線に連行された為、記録もなく、姓名も知らず、国家と政府はいまだに公的な追悼も慰霊も行っていないし、「無名戦士」の記念碑さえ建立していない。

 彼らはきっと悔しくて、瞑目出来ず、異国の弧魂となって北方の荒野や麦畑を彷徨い、嘆いたり、恨んだり、泣いたりしているだろう!

 彼らは一体誰の為に戦い、何の為に死んだのか?

 全然訳の分からないままに歴史に埋められ、時代は軌跡もなく過ぎて行く!

 私はそれが悔しくて遺憾に堪えない!


imgf1cb6f5fzik5zj.jpg

img7bb35185zik7zj.jpg

 知られざる戦後 元日本兵・元国府軍台湾老兵の血涙物語
 許 昭栄 著
 2002年5月 脱稿

 発行所 台湾老兵世界平和祈願公園建設推進委員会高雄事務局


(引用ここまで)



 こうして読みすすめてみると、許さんの自殺の原因として

『自殺の主な原因は政府が、この公園の名前を「戦争と平和紀念公園」から「八二三砲戦勝利記念公園」に変更すると決議したこと。

 そして、許さんの造った「台湾無名戦士記念碑」を勝手に「八二三戦士記念碑」と変更すると提議したこと。当然、許さんはこの提案に反対したが、民進党の陳菊までがこれに賛成してしまった。

 要するに、中国人が勝手に台湾人戦没者を含む全ての無名戦士の碑を名義変更して、単に八二三戦没者の碑にしてしまうことに対して許さんは焼身自殺という形で抗議した。』

 という指摘が本当なら、許さんの気持ちもわかる気がします。

 最後の悲願だと設立運動をしていた「台湾無名戦士記念碑」でさえ叶わぬなら、全てのことに裏切られた絶望と怒りを感じられたことでしょうから・・・。


 改めて、ご冥福をお祈りしたいと思います。
スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。